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1.はじまりにあった存在 -2- [硝子の森]

 どれくらいの時間がたっただろう。
 ぱり……。と、何かを踏み砕くような音がして、少女はそちらに首を巡らせる。
 その視線の先には、ひとりの青年が佇んでいた。
「君は……?」
 青年は眩しそうに、自分より高い位置に立つ少女を見上げる。
「私を呼ぶための名前は、もうずっと前に失われてしまったから」
 淡々と応えるその少女に、青年は激しい違和感を覚えた。
 何に対してかはわからない。
 けれども、少女の周囲の空気だけ、何か異質なものであると感じてしまう。
 白い肌に漆黒の髪と瞳。そして、紅い唇。
 つくりものめいて見える程に整った容貌の彼女が纏うのは、瞳と同色の黒衣だった。
 丈も袖も長い、裾の広がった黒無地のワンピース。
 衿元を飾る白いレースだけが、唯一の明るい色で。喪服のようだと、彼は思う。
「きみが……」
 ぽつりと少女が呟き、その声で青年は我に返った。
「私を見つけたのなら、きみの心には何か叶わぬ望みがあるんだね」
「え……?」
「でも、今日は、いやだな。今日だけは、いやだ」
 少女が何を言っているのかわからずに、彼は眼を瞬かせる。
「今日は、彼が産まれた日なの」
 彼女はそっと銀狼の頭に手を触れた。応えるように、狼はゆっくりと瞳を閉じる。
「だから、きみを楽にしてあげられないんだ」
 申し訳なさそうに呟く少女に、苛ついて青年は思わず声を荒げた。
「何だって言うんだ。わけがわからないよ。君は一体なんだ? 何者なんだ? ここで、何をしている? それに……僕には望みなんてものはない」
 そこまでを一気に吐き出す。そして、彼は所在無く口を噤んだ。
 少女の黒眼が、静かに己を見つめていることに気付いたのだ。
「ほんとうに?」
 溜め息を吐き出すような微かな声音で、彼女が囁いた。
「…………」
 何故だか、本当だと言い切れなくて彼は目線を反らす。
「私は、ひとつの記憶の欠片。君を楽にしてあげられる。代償に、君が幸せをくれるならば。けれどね、今日は彼が産まれた日。今日だけは、いやなの。出来ないの」
 やはり、彼女の言っていることは理解しがたい。
 17、8歳に見えるこの少女。
 ひょっとしたら、頭が少し弱いのかもしれない。彼はそう思った。
「おめでたい日だからかい?」
 彼が産まれた日。
 そう彼女が言ったから、とりあえず訊いてみる。
「ううん。哀しい日だから」
 その結果、青年は更に困惑する答えを得て微かに左眼だけを眇めてみせた。
「君--、ええと、なんて呼んだらいいのかな」
「呼ぶための名前はね……本当に、消えてしまった。私はもう、私ではないし。記憶の欠片にすぎないから。けれど、ネージュ・ノワール。そう、呼ばれることもあるよ」
「Neige Noire?」
 矛盾した名前だなと思いながら、青年は少女の言葉を脳裏で反芻し、訝るような顔になる。
 そんな彼に構うことなく、少女は足下に控える狼を示してその名を告げた。
「うん。彼はClair de Lune。月の光を集めたみたいな毛色でしょう? だから、リュヌ」
 女の子みたいな名前だけれどね。と、少女が笑った。
 青年はその鳶色の瞳を細めて、彼女を見つめる。
「失礼なことをきくけれど。君は、人間なの?」
 気を悪くした様子もなく、少女は小さく首を横に振った。
「じゃあ、君は何者なんだ? ネージュ」
「記憶の欠片」
 呟いてから、彼女は空を仰ぐ。
「良かったら、話してあげるよ? 普段は絶対に話さないんだけれどね。今日は、特別な日だから。 そして、特別な日に、私を見つけたのはあなたが始めてだから……」
 少女はそっと手を伸ばした。
 そして、彼の頬に落ちかかる金色の細い髪に触れる。
「綺麗な髪だね」
 あどけなく笑い、彼女は髪に指を絡ませた。
 肩までには届かない彼のその髪は、するりと少女の指を逃れて青年の頬に落ちかかった。
 君の髪の方がよほど綺麗だ。そういいかけて、彼は口を噤む。
 少女の闇色の瞳の中に、静かな炎を見たのだ。誰にも触れることを赦さない、静かな炎を。
「聞かせて、もらおうかな」
 ゆっくりと、少女の唇に笑みがのぼる。
「うん、私もね。誰かに聞いてもらいたいなって思っていたの」

 銀狼が、蒼い瞳を細めて心配そうに少女を仰いだ。

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